2014年5月14日

洗礼は皆のためのものだ( ? )



- 洗礼は皆のためではない。


去る12日、フランシスコ教皇はバチカンラジオを通じてすべての人々が洗礼を受ける権利があり、エイリアンでも教会の門を叩けば喜んで洗礼を施すと述べた。

法王は、クリスチャンは洗礼を受けたい人に対して「門を閉じてはならず」、洗礼を受けたい人であれば、子供が描くような「緑の肌に長い鼻と大きな耳を持った人でも構わない」という意向を明らかにした。

法王は、「仮に明日、火星人が地球に到着して、その内の一人が、“私も洗礼を受けたい”と言ったらどうするのか」と、このようなジョークを披露した。



*昨年9月に、「神を信じなくても、自分の良心に従えば、神は慈悲をもたらしてくれるだろう」という破格的な言及によって、無神論者でも良心に基づいて救いを受けることができるという主張をした教皇が、「すべての人が洗礼を受ける権利があり、エイリアンでも教会の門を叩けば喜んで洗礼を施す」という言及をすることで、再び論議を巻き起こしている。


教会の中で施す洗礼の儀式は、儀式に参加する者が、イエスを信じて救われた神様の子どもになったことを公に宣言する教会の最も重要な儀式である。だから、教会では、一般的に、特別な場合を除き、洗礼の儀式に参加する者が、一定の学習期間と資格条件(教会出席、聖書の勉強など)を備えることを求められている。

フランシスコ教皇の主張のように、洗礼は、「すべての人に与えられた権利」ではなく、イエスを信じて救われた聖徒だけが享受できる「特権」である。これを誰よりもよく知っている法王が、エイリアンに対する比喩を入れて、洗礼は「すべての人に与えられた権利」という詭弁を弄しているのである。

これらの主張は、最終的に、教会に通わなくても、あるいは、イエスを信じなくても洗礼が受けられると、(形式的な洗礼によってカトリックに加入してさえすれば)皆、救いを得ることができるという論理に発展するだろう。

洗礼を媒介に、無神論者と他宗教者まで引き入れて、最終的にバチカンが主導する「宗教統合」の道に導こうとする緻密な計算の中で投げられた言葉である。冗談のように吐かれた言葉だが、エイリアンの存在を認めるような教皇の発言も、おそらく意図されたものと見られる。




聖書では、反キリストを「不法の人」(テサロニケ第二2:8)と紹介している。世界哲学の論理と神からの法である言葉を崩す者が、反キリスト(an antichrist)である。


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