フランシスコ1世が無神論者である編集長の質問に回答する形式で"無神論者も良心に従えば救われることができる"と、自分の考えを公に発表した。
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"神を信じなくても、自分の良心に従えば、神は慈悲を施してくれるだろう。"フランシスコ教皇(写真)は11日、イタリアの新聞に送った手紙の中で"神は、神を信じない人々を許すか"という無神論者の質問にこう答えた。
イタリアの日刊"ラ レブリカ"の共同設立者で元編集長の無神論者エウジェニオスカルパリは8月のコラムで教皇に公開質問した。すると、教皇はこの新聞に2600字の返事を送り、新聞では11日に1面で紹介された。
法王は、"悔いる心を備えれば、神の慈悲は限界がない"とし、 "救いは信仰がなくても良心によるとされる"と明らかにした。続いて教皇は、"無神論者は良心に反する行動をするときに罪を犯すことになる"とし、
"良心に耳を傾け、それに従うことは、善と悪を区別して判断するという意味だ"と述べた。
*イエズス会出身の最初の教皇であるフランシスコ1世が即位した後、破格的な歩みを続けている。教皇に即位しよう(3月14日)と、サンタ·マリア·マッジョーレ大聖堂を訪れ聖母マリアの祭壇を見つけて花を奉納し、祈りを捧げることによって聖母崇拝(女神崇拝)がその中心であるイエズス会の信仰を端的に見せてくれた。過去の7月には"司祭を性的指向に基づいて判断しない"と言及をすることで同性愛者がカトリック司祭になるための道を開いた。
メディアで大きく取り上げられていない"無神論者も善を行えば救われる"という言及は、フランシスコ1世がすでに5月のミサの説教の中でした発言でもある。この発言が論議になると、すぐに教皇は、スポークスマンを通じて"救いのために信仰を持つべきだということを知りながらも信じていない彼らは救われない"という言い訳で終えたのである。
しかし、今では新聞のコラムで無神論者が投げた公開質問に答える形式で(仕組んでいたという考えを捨てることができない部分だ)"信仰がなくても良心があれば救われることができる"と、自分の考えを公式に明らかにしています。
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"義人は信仰によって生きる"(ローマ1:17)、"天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです"(使徒4:12)、"イエスは彼に言われた。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません"(ヨハネ14:6)神の言葉を正面に敵対した教皇の宣言は、彼が言葉を守護する神の働きではなく、むしろ創世の前から神に敵対してきた敵ルシファー(サタン)のために働く者であることを示している。
"無神論者も善を行なえば救われる"という教皇の破格的な宣言に、世界の人々が見せた賛辞と歓呼のコメントが多々ある。"かれらはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。"(ヨハネの手紙第一4:5,6)
"この世の者"(ローマ教皇)が投げた"世の言葉"に"世界の人々が"耳を傾けて歓呼を送ることは当然のことだといえるだろう。
下の写真は最近チェ・ドンウク検事総長の隠し子が通っていた学校という噂で有名になったギェソン小学校のホームページの様子だ。カトリック系の学校だというのに、ルシファーを象徴する五芒星と逆五芒星(五角形の星)がロゴとして使用されている。 'ギェソン'もルシファー(サタン)を意味する "ギェミョンソン"から取ってきたものと思われる。カトリックが仕える最終的な信仰の対象が誰なのかを端的に示している。
五芒星と逆五芒星を重ねて描かれた学校のロゴと'ギェミョンソン(ルシファー)'を意味すると思われる学校の名前'ギェソン小学校"http://japanese412.blogspot.com/2013/09/1.html |
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